1009月に入り、学校も様々な行事などが目白押しとなっていることでしょう。コロナ状況はまだ予断を許しませんが、少しずつ日常のふれあいが増えてきているのを感じます。

さて、日本政府は8月22日、23日にスイス・ジュネーブの国連欧州本部で2014年に日本が批准した「障害者の権利に関する条約」に関する審査を受けました。審査の結果、障害者の権利委員会から日本政府に勧告がだされたことはご存じでしょうか。
その勧告には特に教育領域において、「インクルーシブ教育の権利を保障すべき」との記述がありました。
インクルーシブ教育とは「多様な子どもたちがいることを前提とし、その多様な子どもたちの教育を受ける権利を地域の学校で保障するために、教育システムそのものを改革していくプロセス」とあります(ユネスコ「インクルージョンへのガイドライン」2005)。
インクルーシブ教育は国によって少しずつ違いはあるものの、同じ場で共に学ぶ機会をつくり、すべての子どもの学ぶ権利を保障するために様々な改革を行っています。
しかし日本では、「普通」が中心あって、そうでない子どもたちを「特別」とみなし、特別支援学校や教室などで「分離」することで「学ぶ機会を保障している」と考えているようにも見えます。これは分離教育とも言われるもので、「あなたたちは私たちと違うから、違う場所でどうぞ」という、一見平等に見えて実は根深い差別意識を感じます。あらゆる公共施設(図書館、学校、水飲み場、バスの座席など含む)で白人と有色人種を分離していた公民権運動以前のアメリカを連想してしまいます。日本では人種差別はしていないと反論されるかもしれませんが、ここで言いたいのはマジョリティがマイノリティに対してあまりにも無頓着に「分ける」ことを強いる環境を「当然だ」と問題視していないことが問題だということです。
社会で、学校で、マジョリティの「普通」のお子さんにすべての環境(生活、活動、学習へのアクセスなど)を合わせて、そうでないお子さんへの対応は「特別だから別のところで実施」を当然だと思ってしまっている。そういうことはないでしょうか。そうはいってもどうすれば良いのかわからない、分離したほうが子どものためじゃないのか、そういう声も聞こえそうです。
そういうときは私は目の前の1日や一週間先を見るのではなく、5年先、10年先、20年先の社会を想像することにしています。目の前の現実はどうあったとしても、わたしたちが目指したい、創りたい社会のあり方を思い浮かべることが大切です。想像は自由です。理想をともすれば失いがちな日々ですが、教師が理想を忘れてはいけません。子どもたちも夢や希望をたくさんもっています。その夢を応援できるよう、大人が心に明るい未来や子どもの幸せを願う希望を描くことで、苦しい「今」を変えていくことができると信じています。
世界はどんどんグローバル化し、人や物の流れも日本だけを見ていることはできません。どこにあっても、子どもたちがお互いを認め合い、良いところを見つけ、足りない所を補い合い、それで相互がハッピーに慣れる関係を築けるような社会や世界であればと願います。
 
United Nations Educational Scientific and Cultural Organization (2005) Guidelines for Inclusion: Ensuring Access to Education for All
http://www.ibe.unesco.org/sites/default/files/Guidelines_for_Inclusion_UNESCO_2006.pdf