PDF版はこちら
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
伊藤亜紗 (2015) 光文社新書
井狩幸男(大阪市立大学英語教育開発センター教授)
皆さん、こんにちは。大阪市立大学の井狩です。
私は今、文学部や文学研究科で専門科目を教えながら、学部の主専攻と異なるグローバルコミュニケーション副専攻で、英語能力の伸長と共にグローバルマインドの習得を目指す学生の為に、GC総合演習という科目を担当しています。このクラスで本書を使用しました。いわゆる「障がい」に対する先入観や固定観念が払拭され、随所で新たな気づきが生まれることに起因します。
この本はご存知の方も多いかも知れません。有名な絵本作家のヨシタケシンスケさんが書かれた『みえるとかみえないとか』の元になった書物です。
「まえがき」で、伊藤先生は、本書のことを次のように書かれています。本書を知る上でとても大切な箇所ですので、少し長くなりますが、引用します。
“世界とのかかわりの中で体はどのように働いているのか。本書は、広い意味での身体論を構想しています。ただし、これはあまり前例のない身体論かもしれません。一般に身体論では健常者の標準的な体を扱います。ところが本書では、「見えない」という特殊な体について考えようとしているわけですから。”
しかし、見えない体にフォーカスするからといって、必ずしもそこから得られるものが限定的だというわけではありません。障害者とは、健常者が者が使っていないものを使っている人です。障害者の体を知ることで、これまでの身体論よりもむしろ広い、体の潜在的な可能性までとらえることができるのではないかと考えています。“
したがって、本書はいわゆる福祉関係の問題を扱った書物ではなく、あくまで身体論であり、見える人と見えない人の違いを丁寧に確認しようとするものです。
とはいえ、障害というフェイズを無視するわけではありません。助けるのではなく違いを面白がることから、障害に対して新しい社会的価値を生み出すことを目指しています。
本書をグローバルの授業で使った理由は、この引用箇所に集約されると言っても過言ではありません。つまり、新たな気づきを通して、既成概念を打ち破ることにあります。他方、大学生協で本書を最初に見つけた時に、思わず手に取った理由は、別にありました。聾者と違い、盲者にとっての母語は音声言語です。私は、自分の専門領域の神経心理言語学の観点から、視覚情報が使えない先天的盲者の意味世界が、晴眼者と比べてどう違うのかについて、以前から強い関心を抱いていました。そこで、偶然とは言え、本書に出会えたのは、非常に幸運でした。以下では、その観点から本書を紹介します。
分かりやすい例として、色彩について書かれている箇所(pp.68-69)を取り上げます。
“個人差がありますが、物を見た経験を持たない全盲の人でも、「色」の概念を理解していることがあります。「私の好きな色は青」なんて言われるとかなりびっくりしてしまうのですが、聞いてみると、その色をしているものの集合を覚えることで、色の概念を獲得するらしい。たとえば赤は「りんご」「いちご」「トマト」「くちびる」が属していて「あたたかい気持ちになる色」、黄色は「バナナ」「踏切」「卵」が属していて「黒と組み合わせると警告を意味する色」といった
具合です。ただ面白いのは、私が聞いたその人は、どうしても「混色」が理解できないと言っていたことでした。絵の具が混ざるところを目で見たことがある人なら、色は混ぜると別の色になる、ということを知っています。赤と黄色を混ぜると、中間色のオレンジ色ができあがることを知っています。ところが、その全盲の人にとっては、色を混ぜるのは、机と椅子を混ぜるような感じで、どうも納得がいかないそうです。赤+黄色=オレンジという法則は分かっても、感覚的にはどうも理解できないのだそうです。“
ここに書かれていることから、晴眼者がいかに視覚情報に頼っているかが見えてきます。盲者は、視覚以外の感覚器官や身体運動を通して得られた情報を基に意味世界を創り上げるのに対し、晴眼者は、かなりの程度視覚情報に依存して意味世界を築いているようです。このことから、聾者の手話による意味世界と同様に、盲者の音声に基づく意味世界を再構築することが、必要であると痛感します。
次に、言語と非言語認知能力の関係を考える上で、参考になる箇所(pp.63-64)を取り上げます。次の例は、盲者ではありませんが、48歳まで斜視で立体視ができなかった女性に関する記述です。
そんな彼女が、四十八歳にして初めて立体視ができるようになった。物の立体感や、物と物の位置関係が分かるようになったので、初めての部屋に入ってもとまどうことはありません。内装がどうなっているか、その全体を一瞬で把握することができるようになったからです。つまり「空間とは何か」が分かるようになったのです。それは「魅力的でうっとりする」感覚だったとバリーは言います。空間の中にテーブルや椅子があり、その同じ空間に自分もいる。「自分がちゃんと世界に存在している感じ」を、バリーは四十八歳にして初めて手にいれたのです。
そんな大きな変化を経験した彼女において、情報を処理する仕方はどんなふうに変わったのでしょうか。彼女によれば、初めての部屋に入って空間の全体をぱっと把握できるようになったように、たとえば論文を読むときにも、全体を一気に読むときにも、全体を一気に把握することができるようになったそうです。それまでの彼女の情報処理の仕方は、「部分の積み重ねの結果、全体を獲得する」というものだった。ところが立体視ができるようになったことで、「まず全体を把握して、全体との関係で細部を検討する」という思考法ができるようになったのです。視覚の能力が思考法にも影響を与える、興味深い例です。
上述の内容から、空間認知能力が、言語理解に重要な役割を果たすことが示唆されます。また、これは書記言語だけでなく、音声言語にも当てはまると考えられます。このことから、言語の媒体が音声、手話、文字、点字のいずれであっても、文や文章を理解することに空間認知能力が深く関わっていることが分かります。
今回取り上げたのは、本書の中のほんの一部です。その他に、盲者と晴眼者の見方の違いについて考えたり、言語や言語に直接関係がない認知能力について考えたりする上で、示唆が得られる内容が満載です。ぜひ本書を手に取って、一読されることをお勧めします。
井狩幸男(いかり・ゆきお)
大阪市立大学英語教育開発センター教授
大阪市立大学文学部、大学院文学研究科にて学部生・院生の指導、並びに母語獲得・第二言語習得のメカニズムについて、心理言語学・神経言語学の観点から研究を行う。博士(文学)